古代ローマ時代にシテ島がガリア統治の最前線となった。交通の要衝。ローマ支配時代の遺構、遺物が残っている。
パリのあたりは人間活動に恵まれた地であり。ケルト系、ラテン系、ゲルマン系諸集団が相互交流した。諸文化の出会いの地。
パリはカペ朝(987~)のおひざ元。1112年に王都の特権を得る。12世紀初頭、フィリップ2世がパリの王都整備に意欲。教師と学生の共同体に認可。パリ大学の元。
セーヌ川はパリ市に東から流れ込む。水量が安定していた。14世紀初め人口は20万人。大橋(シテ島ー右岸)は両替橋と呼ばれる。中世の橋は上に店舗、住居があった。
14世紀半ばペストのパンデミック。15世紀には人口10万まで減少。1337年英仏100年戦争の戦端が開かれる。1453年イギリス国王軍が撤退。
パリ市民の自治意識は高かった。1357-58年、商人頭エチエンヌ・マルセルの反乱。
ルネサンス期、フランソワ1世(在位1515-47)のレオナルド・ダ・ヴィンチ招聘。1528年居城はパリ。ルーブル城を改修すると宣言。
17世紀はヨーロッパ危機の時代。農業不振と疫病の発生。ルイ14世(在位1643-1715)の時代ヴェルサイユ宮殿の新設、宮廷社会の形成。デカルト『方法序説』(1637年)。サロンの形成。外食産業が活性化。1672年初のカフェ。18世紀初頭人口50万人。
1789年フランス革命が始まる。1791年最初の憲法(立憲君主制)。92年秋共和制に移行。1793年8月10日ルーブルが共和国中央美術館となる。
セーヌ県知事シャブロル(1812- 15, 1815-30)パリの整備事業を開始。
1848年2月革命で第二共和政。ルイ・ナポレオンが大統領選挙に当選する。クーデタでナポレオン三世となって1852年から帝政に。パリ改造に意欲。新たなセーヌ県知事オスマンを任命。パリの大改造を始める。1870年代末第三共和制。1877年にオペラ座大通りが完成する。直線大通りと環状線。ターミナル駅。ガラスと鉄骨。道路の地下に上下水道、ガス管を通す。ヴァンヌ川水源から180キロ、デュイス川水源から130キロの導水路で上水を取る。
1872年岩倉使節団パリ到着。
モード、食。レストラン、ブラッスリー(アルザス方式ビール食堂)